第5章 〜アルツハイマーの研究〜
アルツハイマーの研究は広範にわたるが、その中で主に着目されることが二つある。一つは、記憶力の向上である。アルツハイマーでは記憶力の低下が問題となるので、どうしたら記憶力が上がるかということについて考えるのである。もう一つは、βアミロイドである。第1章で述べたように、βアミロイドはアルツハイマーの原因物質と考えられているので、主要な研究対象となっている。
アルツハイマーの最も顕著な症状として、記憶力の低下が挙げられる。その記憶の機能の重要な担い手であるのは、海馬である。海馬は、およそ1000万個の神経細胞から成っていて(ちなみに神経細胞の数は脳全体では1000億個)、図1のような構造をしており、情報伝達においては歯状回、CA3野、CA1野と呼ばれる部位が重要となる。情報は、脳の側頭葉から入り、側頭葉→歯状回→CA3野→CA1野→海馬支脚→側頭葉という一方通行の流れをたどって、側頭葉にフィードバックされる。この海馬を通過する過程で、何を記憶し何を忘れるかという判別が行われる。海馬の機能は情報の仕分けが中心であり、実際情報が蓄えられる場所は側頭葉である。
こういった情報の流れにおいては、神経細胞の存在が重要である。神経細胞は図2のような構造をしており、普通の細胞とは形態がかなり異なる。神経細胞同士は、樹状突起という部分と軸策という部分が結合することにより、連絡を取り合う。この結合部位はシナプスと呼ばれる。
情報の流れは、たくさんの神経細胞から成る神経回路において、電気回路のように、電気が流れることによって伝わっていく。この神経回路における電気の流れは、図3のようにナトリウムイオン()によって生じる。
ナトリウムイオンの流れが軸策の末端に到達すると、アセチルコリンやグルタミン酸などの神経伝達物質が放出される。放出された神経伝達物質は、図4のように次の神経細胞の樹状突起に到着する。ここには、アセチルコリン、グルタミン酸それぞれに専用の受け手となる、受容体が存在する。グルタミン酸受容体の場合、グルタミン酸を受け取ると構造が変化して穴が広がり、ナトリウムイオンを通すようになる。これが、次の神経細胞の興奮の源になり、情報伝達が行われていく。
このような情報伝達がもととなって記憶が行われるわけであるが、その記憶の力を増強することについて考えた場合、LTPというものが非常に重要になってくる。LTPとは、海馬の歯状回のシナプスを、テタヌスと呼ばれる高い周波数の電気で刺激すると、シナプスにおける情報伝導の効率が著しく増加し、しかも、この刺激を止めた後でもこの状態が持続するという現象である。シナプス伝達の効率が良くなるということは海馬の情報処理がより早く確実になされるということなので、これは結果として記憶力の増強につながる。
LTPには神経伝達物質と受容体が深く関わっている。海馬における神経伝達物質はグルタミン酸であり、グルタミン酸にはAMPA受容体とNMDA受容体が存在する。二つの受容体があるが、実際は普段の神経細胞の活動に用いられているのはAMPA受容体のみである。NMDA受容体は、図5のようにマグネシウムイオン()でふたをされて眠った状態にある。このマグネシウムイオンのふたは、テタヌスによって外れる。ふたが外れると、ナトリウムイオンやカルシウムイオン()が受容体の穴に流れ込み、このカルシウムイオンが、樹状突起内に眠っていた不活性なAMPA受容体を細胞の表面に出てくるように刺激する。その結果AMPA受容体が増加し、電気信号が強くなって情報伝達が起こりやすくなるのである。これがLTPの仕組みである。
こうしたLTPの仕組みを理解すると、アルツハイマーにおける記憶障害を防ぐためには、NMDA受容体を刺激すると良いという考えが浮かんでくる。この考え方のもとで行われている研究では、NMDA受容体のふたが外れるのを促進する物質として二つのものが注目されている。それは、K90とエストロゲンである。
K90は、肝臓に大量に含まれていて、肝臓の修復の際に分泌される物質である。最近の研究で、このK90は海馬にも存在しており、NMDA受容体の穴を広げて、NMDA受容体を通過するカルシウムイオンの量を3倍にまで上昇させることが発見された。実際、ねずみに立体迷路の中でえさを探させるテストにおいて、K90を与えたねずみは自分の通った道をよく覚えていて、効率良くえさを探せたという結果が出ている。しかし、K90は頭がい骨に穴を開けて脳に直接投与せねばならないので、実用化にはまだ時間がかかりそうである。
エストロゲンとは女性ホルモンの一種であり、図6のような構造をしている。
研究の結果、エストロゲンは脳の記憶力増強に効果があるということがわかった。エストロゲンは女性ホルモンであるが、男性の体内に存在しないということではない。男性ホルモンと女性ホルモンの構造は非常によく似ていて、男性ホルモンも必要に応じて女性ホルモンに変換され働いているからである。それどころか、生殖能力の衰えた老年期では、女性の体内のエストロゲンは男性よりも少ないと言われている。
エストロゲンは、IGF-1という物質の分泌を促進する。IGF-1は、NMDA受容体へのカルシウムイオンの流入を促すという研究結果が出ている。IGF-1を直接体内に取り込めば良いように思われるが、IGF-1を直接取り込んでも、脳に到達する前に血液脳関門に阻まれて海馬に行き届くことはない。
アルツハイマー患者の脳を解剖して顕微鏡で観察すると、βアミロイドから成る老人斑という構造が見られる。アルツハイマーの主要な原因物質と考えられている、このβアミロイドは、アミロイド前駆体タンパク質(APP)が、ある特定の位置で切断されることにより生じる。一見、単なる有害物質にしか思われないAPPが何のために生体内に存在しているのかは、まだはっきりしていないが、シナプスの形成などに関与していると考えられている。
APPは図7のように、正常な場合はαの位置で切断され、異常な場合はβ、γの位置で切断される。βアミロイドは、β、γの位置で切断された場合に生じるのである。ここで、APPを特定の位置で切断するはさみの役割を担うのは、酵素である。APPを切断する酵素には、αセレクターゼ、βセレクターゼ、γセレクターゼの三種類があり、それぞれα、β、γの位置を正確に認識し選択的に切断する。
以前から、APPのもととなっている遺伝子の異常が、家族性アルツハイマー患者の間で確認されていた。この遺伝子の異常により異常なAPPが産出され、βアミロイドが作り出されるスピードが速くなるのである。しかし、その遺伝子の異常だけでは全てのアルツハイマーの説明はできなかった。そこで、他にアルツハイマーの原因となっている遺伝子はないか研究が進められた結果、プレセニリンという別の遺伝子が発見された。そして、このプレセニリン遺伝子はγセレクターゼを産出することがわかったのである。つまり、プレセニリンが存在すると、βアミロイドが生成しやすくなる。
βアミロイドの有害な働きについては、まだ完全に明らかにはなっていないが、いくつかの考え方が挙げられている。
βアミロイドは非常に水に溶けにくく、βアミロイド同士で集まり沈殿物を形成しやすいという性質がある。この沈殿物が老人斑を形成する。βアミロイドが発見された当初、実験室で培養された神経細胞にβアミロイドを与えると、細胞がぼろぼろになって死に至る、アポトーシスという現象が観察された。そのため、βアミロイドは神経に対する毒であるという説が有力であった。しかし、神経細胞を殺すには、生体内に存在するよりもずっと高濃度のβアミロイドを与える必要があったので、βアミロイド神経毒説は完璧とは言いがたかった。
そこで、別の観点から説が挙げられた。神経細胞が死んでいく時は、まず、何千とある樹状突起の減少が観察される。そこで、シナプスで何かが起こっているのではないかという観点から研究が行われた。海馬の神経伝達を行うグルタミン酸は、軸策末端から放出された後、再利用されている。この再利用の機構に、グリア細胞という細胞が関わっている。このグリア細胞の働きをβアミロイドが促進させる結果、活発になったグリア細胞が再利用をしようとしてグルタミン酸を横取りしてしまい、本来情報伝達に必要なグルタミン酸が樹状突起に届かなくなるという、図8のようなグリア細胞横取り説が最近発表された。
βアミロイドは、最も有名な作用として神経原線維変化を引き起こすということが知られている。神経細胞にはたくさんの樹状突起が存在するが、この構造は内部の束ねられた微小管という管に支えられて、形を保っている。この微小管を束ねる働きを担うのは、タウタンパク質である。βアミロイドは、このタウタンパク質の能力を失わせるGSK3βという酵素の働きを活発にする。結果として不要となったタウタンパク質が集まり、繊維を形成する。これが神経原線維変化である。タウたんぱく質が能力を失って微小管が束ねられなくなると、樹状突起の支えがなくなるので、神経細胞は死んでしまう。また、束となっている微小管は細胞内における物質輸送において重要な役割を担うので、微小管がバラバラになってしまうと細胞内で生産されたAPPを外に排出できなくなり、結果としてβアミロイドが蓄積することになる。