2章 がん遺伝子とがん抑制遺伝子

2.1 はじめに

2.1.1 研究のあらまし
がん研究の歴史は長い。200年ほど前にはイギリスのPottががんと環境との関連について指摘しており、これは化学発がん研究の原点ともいえる。その後化学発がんの研究は進展し、化学発がん物質がDNAに傷を付けることでがんが発症するという考え方の定着に至った。一方、1900年代初めには既にRous博士によってトリに感染して肉腫を作るラウス肉腫ウイルスが見いだされていたが、当時は有効な解析手段が無かったためになかなか研究は進まなかった。突破口を与えたのはDNA,RNAを容易に扱うことのできる分子生物学の力であり、一連の研究が1900年代後半に行われた。この2つの研究の流れを1つにしたのが近年明らかになったがん遺伝子とがん抑制遺伝子の存在であり、現在ではがんを遺伝子発現の異常による疾患として理解することが可能になってきた。

2.1.2 がん遺伝子とがん抑制遺伝子とは
がんは、体細胞変異が積み重なって生じる遺伝子の病気である。その変異ががんの原因に関係する遺伝子をがん関連遺伝子(cancer-critical gene)と呼ぶ。がん関連遺伝子は、がんの危険性が遺伝子産物の活性の過剰によるものか不足によるものかによって、原がん遺伝子(proto-oncogene)とがん抑制遺伝子(tumor suppressor gene)の2種類に分けられる。

原がん遺伝子は、機能獲得変異によって不必要に細胞数を増加させて細胞をがん化するが、原がん遺伝子が変異を起こして過剰活性型になったものをがん遺伝子(oncogene)と言う。それとは対照的にがん抑制遺伝子は、機能欠損変異して正常なら細胞数を一定に保つのを助ける増殖抑止機構を外してしまうためがんに繋がる。がん遺伝子は優性で、対のうち1個のがん関連遺伝子の機能獲得変異が細胞のがん化をもたらす。がん抑制遺伝子は一般に劣性であり、片方のがん抑制遺伝子が除去または不活性化されただけでは影響がない。両方の対立遺伝子の機能が欠損してはじめてがん抑制遺伝子が機能を失い、細胞の異常を誘発する。

2.2 総論

2.2.1 がん遺伝子とがん抑制遺伝子の研究手法
(1)がん遺伝子
現在のところ、変異によって活性化し、がん遺伝子に変わるがん関連遺伝子は100個以上知られている。がん遺伝子は優性である特質を利用して、形質転換によって同定することができる。即ち、マウス由来繊維芽細胞など適当な株化細胞を選び、これをがん化するDNA断片を腫瘍細胞のゲノムから探し出す。DNA断片にがん遺伝子が含まれていれば形質転換を起こした細胞が異常に増殖し、コロニーを形成する。正常細胞は普通、培養器の表面を単層の細胞が覆いつくす程度まで増えると分裂を停止する。増殖が他の細胞との接触によって抑制されるのだろうと考えられている。しかしがん細胞には接触抑止が働かず、培養器の中で積み重なって増えていくため、視覚的に確認が容易である。

(2)がん抑制遺伝子
一方がん抑制遺伝子の同定には、過剰活性型のがん遺伝子の場合とは違う方法が必要である。不活性化により存在しないものの同定には形質転換法は使えないからである。まとめると、今のところ主にがん細胞のゲノムを入念に調べ、特定染色体領域のヘテロ接合状態の喪失としていつも現れる遺伝子の欠損の兆候を探す方法と、家族性のがんの研究の方法がある。

その鍵は、ヒトのまれながんである網膜芽細胞腫(retinoblastoma)の研究から得られた。網膜芽細胞腫とは、およそ2万人に1人の割合で発生する子供のがんであり、遺伝性のものと非遺伝性のものがある。がん細胞は遺伝的に不安定なためかなりの領域が欠損している。遺伝子の欠損は、染色体の比較的大きな領域の欠失によることが多く、一方の染色体に大きな欠失があれば、欠失部位の検出はかなり容易になる。また、染色体に母方と父方とで区別可能な違いがある遺伝的多型性を利用する戦略もある。ヒトDNAの塩基配列には平均ヌクレオチド1000個あたり平均1個の違いがあり、ヘテロ接合状態にある。一方の染色体のかなりの領域が失われている部位ではヘテロ接合状態が失われており、その近くでは遺伝的多型性を含むDNAの一端だけが残っている。ヒトゲノム計画の中でヘテロ接合状態がよくみられる100万を超える部位の位置が決定されたが、それぞれの部位には多型(polymorphic)が存在することを利用して、患者の腫瘍とがんでない組織とに由来するDNAの多型配列を比較すると、多型部位を多数含む領域におけるヘテロ接合状態の欠如、または非がんの対照DNAにみられる遺伝マーカー配列の欠損から、どの染色体領域が欠損したかが分かる。大規模DNA解析や欠失、その他の変異の検出技術は急速に進歩しつつあり、今後多くのがん抑制遺伝子が発見されていくと思われる。

2.2.2 がん遺伝子の発現機構と具体例
がん関連遺伝子をがん遺伝子に変えるしくみは基本的に3つある。1つめはコード領域内の欠失または点変異であり、これにより高活性タンパク質の正常生産が行われる。2つめは遺伝子増幅で余分なコピーができることによる正常タンパク質の過剰量生産である。3つめは染色体再編成で、これは更に調節DNAが近傍に来て正常タンパクの過剰生産を誘導する場合と、活発に転写される遺伝子との融合が起こり、融合タンパクが過剰に作られるか高い活性を持つ融合タンパクが作られる場合とに分けられる。

遺伝子増幅の典型例はerbBファミリー遺伝子である。c-erbB-2-遺伝子は乳がんや卵巣がん等の性ホルモン作用組織でよく遺伝子増幅しており、胃がんや顎下腺がんなどの腺がんでも比較的よく増幅が見られる。これに対し、EGF受容体/c-erbB-1遺伝子は食道がんや口腔がん等の扁平上皮がんでよく増幅している。このほかにもmycファミリーの遺伝子が肺がんや白血病細胞等でよく増幅している。先に挙げた網膜芽細胞腫にはN-mycの増幅がみられる。

染色体転座の例も数多い。有名なものには第8番染色体上のmyc遺伝子が第2番、14番、22番染色体上の免疫グロブリン遺伝子座に入りこむことによるバーキットリンパ腫での転座などがある。これはmyc遺伝子が免疫グロブリン遺伝子の支配下に置かれることで、Bリンパ球で免疫グロブリン遺伝子の転写が活発になることに伴ってmycも過剰に発現するようになるものと考えられる。バーキットリンパ腫の例は転写因子をコードする遺伝子に対する染色体転座の例であったが、他の機構もある。慢性骨髄性白血病(CML)では、フィラデルフィア染色体でbcr遺伝子とabl遺伝子が融合し、Bcrタンパク質(セリン/トレオニンキナーゼ活性を示すとされる)がAblチロシンキナーゼと融合した形で産生される。この融合タンパク質はAblのチロシンキナーゼ活性が高く、がん化能を有している。

2.2.3 がん抑制遺伝子の発現機構
がん抑制遺伝子の不活性化には基本的に6つのしくみがある。先にも述べたように、1対のがん抑制遺伝子、例えばRb遺伝子のうち一方だけに欠損がある細胞は、正常で健康な細胞としての振る舞いを示す。もう一方の遺伝子の機能も失われたときがんに繋がるが、そのしくみが以下に挙げる6つに分けられる。1つめは正常な染色体の欠落(不分離)。2つめは不分離と変異染色体の重複。3つめは体細胞分裂により正常な染色体の一部が異常な染色体によって組み替えられる場合。4つめは遺伝子変換によって正常遺伝子が変異遺伝子と置換する場合。5つめが正常遺伝子の欠失で、最後の6つめは正常遺伝子の点変異である。このようにいろいろな場合があるが、結局、がん抑制遺伝子の不活性化は、不運が重なって1対の遺伝子が両方とも削除されたり破損したりする現象であるとまとめることができる。

2.3 各論

2.3.1 がん遺伝子のはたらき
これまでの研究により、正常細胞内にはがん遺伝子の起源であるプロトがん遺伝子が存在すること、その種類は細胞内シグナル伝達系のネットワークを反映して多様であること、ヒトがんにおいてもこれらのプロトがん遺伝子がいくつかの特徴的な活性化様式に基づいて異常となることが明らかにされてきた。これらのがん遺伝子は、遺伝子の作るタンパク質の機能から大きくチロシンキナーゼ群、Ras遺伝子群(Gタンパク質群)、セリン/トレオニンキナーゼ群、転写因子群の4つのグループに分けられる。最初に細胞内シグナル伝達系について記した上で、各グループの詳細に立ち入る。

(1) 細胞内シグナル伝達系
細胞内シグナル伝達系とは、ホルモンや細胞増殖因子などが、細胞表面の受容体に結合すると、その刺激が次々と伝達され、細胞分裂に至るまでの過程である。伝達系には大別して7つの化合物種があり、伝達系を伝わっていくに従って情報の強さは増幅される。7種の化合物を伝達系の流れの中に位置づけて述べると、

1) 細胞外からの情報を伝えるホルモンや細胞増殖因子などの物質が細胞表面に結合する
2) それらの細胞外からの情報の受容体(R)が変化する
3) Rに内蔵されているチロシンキナーゼ(protein tyrosine kinase)が活性化する
4) Gタンパク(G protein;グアニンを含むタンパク質)の活性化がおこる
5) rasタンパク、rafタンパク、cAMP(環状アデニル酸)反応タンパク質に情報が伝わる
6) MAP(Mitosis-activating protein )キナーゼが活性化する
7) 細胞核のタンパクであるcyclinやそれに随伴するCDC2キナーゼがリン酸化され、細胞の分裂が起こる。
といったようになる。

(2) チロシンキナーゼ群
ほとんど全ての細胞増殖因子の受容体Rにはチロシンキナーゼが内蔵されている。チロシンキナーゼの活性化は、多くの場合自身のtyr領域へのリン酸の結合(autophosphorylation)を起こし、このtyr-PがSH2領域に認識されることで情報が伝わる。Rの構造には比較的大きな分子のチロシンキナーゼを1つだけ含むI型とII型、小さい分子のチロシンキナーゼを2つ含むIII 型とIV型がある。チロシンキナーゼ活性をもつ細胞増殖因子受容体をコードするがん遺伝子には、neu/c-erbB-2, ret, met, trk, sam等があり、このうちのtrkは神経成長因子の受容体を、metは肝細胞増殖因子の受容体を、またsamは繊維芽細胞増殖因子の受容体をコードしている。これらは受容体型チロシンキナーゼと称される。非受容体型チロシンキナーゼの代表はv-srcがん遺伝子産物をはじめとするSrcファミリーキナーゼである。Rous肉腫ウイルスのがん遺伝子がv-srcである。Srcファミリーキナーゼにはsrc, yes, fgr, fyn, lynなど染色体上に少なくとも10種類程度あり、いずれも基本構造はよく類似しているが、それぞれのアミノ末端付近は特異的である。この特異領域に隣接してSH3(Src Homology)やSH2領域が存在する。SH2配列はリン酸化チロシンとの間の接着部のような役割を有しているようである。SH3配列の機能については多くはわかっていないが、分子内立体構造の調節を介してチロシンキナーゼ活性を制御していると推測されている。これまでのチロシンキナーゼは細胞膜近辺に分布するものであるが、細胞質や核に存在するチロシンキナーゼとしてAblやFbsがある。DNAの損傷は細胞周期の停止によって修復の機会を得るが、がん遺伝子ablは細胞周期の停止に関わる経路で働いている。

(3) Ras遺伝子群 (Gタンパク群)
研究の初期に明らかになったがん遺伝子rasがコードするRasタンパクはGタンパクの一種である。Gタンパクとは、ホルモンや神経伝達物質などの受容体を介した細胞内シグナル伝達経路で、情報を変換し伝達する因子(トランスデューサー)として機能するタンパク質のことであり、GTPase-actvating protein:GTP結合タンパク質の略称である。Gタンパクには比較的分子量の大きいものと小さいものとがあり、大きいものはα、β、γのサブユニットを持ち、ホルモンや神経刺激の伝達に関係している。小さいものは細胞の増殖や分化に関係する情報の伝達に関与している。細胞に刺激が加えられるとGタンパクはGDP結合型からGTP結合型に変換する。このGTP結合型は細胞内で生化学的反応を引き起こす。通常Rasタンパク質は刺激が加わらなければGDP結合型だが、がん化能を有する変異したRasタンパク質はGTPに強い親和性を示し、常にGTPに結合した状態にあって細胞を増殖に向かわせる原因になっていると考えられている。しかし、rasだけでがんが起こるのではなく、いくつかの他の要因と重なったとき発がんに至るとされる。

(4) セリン/トレオニンキナーゼ群
セリン残基、トレオニン残基をリン酸化する酵素は多い。代表的なものとしてはCキナーゼ、cyclicAMP依存性タンパク質キナーゼ(Aキナーゼ)、cyclicGMP依存性タンパク質キナーゼ(Gキナーゼ)、Cdcキナーゼなどがある。AキナーゼとGキナーゼは細胞外の情報を細胞内に伝えており、Cdcキナーゼは細胞周期の調節に重要な役割を担っている。細胞の分化増殖や細胞周期の調節に関係する働きをしており、がん遺伝子の産物として発見されているものにはCot,Raf,Mos,Aktタンパク質などがある。例えばRafタンパクをコードするrafはRNA腫瘍ウイルスのがん遺伝子として発見されたが、これはトリに肝がんや腎がんを誘発する。大抵RafはRasのターゲットであり、GTP結合型のRasがRafタンパク質と物理的相互作用する。つまりRafはシグナル伝達系でsrcやrasの下流で機能しているのである。また、akt遺伝子は、脂質のキナーゼであるPI3Kからの生存の信号を伝達し、アポトーシスをブロックしている。

2.3.2 がん抑制遺伝子のはたらき
(1) Rb
腫瘍における染色体の欠失や転座を調べる方法と、高頻度で発症する家系ついての分析によって、網膜芽細胞腫の原因遺伝子が13番染色体の長腕にあることが分かった。この座位をRB1と呼んでいる。その後腫瘍の原因遺伝子Rbが単離された。Rbは網膜芽細胞腫で欠失しているだけでなく、骨肉種・肺の小細胞がん、乳がんなどにおいても変異している。Rbタンパク質は、細胞周期特異的に機能している。一般にRbタンパク質は、盛んに増殖している細胞でも増殖を止めた細胞でも発現しているが、そのリン酸化状態は異なる。細胞周期の中で、G0-G1期ではRbタンパク質はほとんどリン酸化を受けないが、S期では高度にリン酸化されている。Rbタンパク質はリン酸化されるとSV40largeT抗原と結合しなくなり、おそらく正常な機能を果たせなくなる。細胞周期特異的に機能するリン酸化酵素にCDKファミリーの中のCdc2キナーゼがある。CDKsによるリン酸化を受けていないRbタンパク質は、SV40largeT抗原のほかに、E2Fなど何種類かの転写因子と結合しており、Rbタンパク質のリン酸化は転写因子が活動を始めるきっかけになる。

2.4 まとめ
がん遺伝子とがん抑制遺伝子の研究によって、がんの仕組みが明らかになりつつあるが、まだ分からないことも多い。ほとんどの場合これらの遺伝子は単独ではがん化に至らず、複数の変異が重なってがんになるが、その組み合わせは厳密に決まっている。例えば大腸がんが引き起こされるにはK-rasがん遺伝子の活性化と、APC、P53などの適当ながん抑制遺伝子の不活性化が必要である。これらの組み合わせの意味だけでなく、個々の遺伝子の役割についても、研究が尽くされたものを除いては不明な点が多いのが現状である。

しかし、初期にはそれぞれ別々に研究されていたがん遺伝子同士が、最近になって極めて密接に関連していることが明らかになり、srcとrasあるいはercBとjunといったように複数の研究が相互に影響しながら、共通の現象をターゲットにするようになってきた。例えば各論中で少し触れたように、チロシンキナーゼの標的タンパク質として、Rasタンパク質の活性を制御する因子が浮上しているし、チロシンキナーゼの活性亢進によってJunタンパク質のリン酸化の程度が変化をうけ、転写調節能に影響を及ぼすことが分かってきた。このように、今後はがん遺伝子の機能を立体的に関連づけて捉えることが重要である。

2.5 参考文献
「がん遺伝子とがん抑制遺伝子」 南江堂
「がん遺伝子と抑制遺伝子」 東京大学出版会
「見えてきたがんのプロフィル」 篠原出版
「細胞の分子生物学」 ニュートンプレス

不老不死への科学