第1章 〜序論〜

1.1 毒とは
毒(どく)、毒物(どくぶつ)とは生物にとって不都合を起こす化合物である。毒物が生体へ影響を与えるメカニズムは毒により異なるため、不都合の種類と程度は、毒の種類により多様である。また、ある生物にとっての毒が別の生物には毒でないこと(選択毒性)もあれば、その化合物が微量だけ存在することは生物にとって必要だが、一定量以上ある場合には毒としても働く場合(ビタミン、微量元素)などもある。

1.2 毒の作用の特徴
毒の作用の仕方には急性か慢性かということがある。たとえば、ハブにかまれたら毒の作用は急性の場合が多い。それでは実験室で毎日ベンゼンを吸ったとしよう。ベンゼンが少量混じった空気を一回吸ったとしても別に中毒症状を起こさないかもしれないが、何回も吸っているうちに、一ヵ月後、二ヵ月後に何らかの症状が現れることが多い。これは慢性の中毒のためである。一方、多量のベンゼンを吸えば急性中毒を起こしうる。同じ物質でも急性中毒と慢性中毒とでは症状がまったく違うことがある。たとえばベンゼンでは急性中毒では中枢神経をおかすが、慢性中毒の場合には貧血、骨髄の損傷、白血病を起こす度合が高くなる。

次に毒の作用が局部性か全身性かということがある。おできができたとき、軟膏をつける。このような薬は局部作用によるもので、仮に毒作用があっても局部にとどまることが多い。しかし薬には静脈注射によるものもある。このような薬の作用は全身性で、また薬の毒作用も全身性である。

薬の作用によって組織や器官がおかされたとき、その組織や器官が復元する(可逆的)か、損害を受けたまま直らない(不可逆的)かということがある。肝臓は復元力が強いので、少しくらいの傷ならばまた復元する。しかし肝臓がアルコール中毒で肝繊維性や肝硬変を起こしたりすると、復元力はなくなり、非常に危険な状態となる。通常、中枢神経系統の損害は不可逆的である。神経細胞はほかの細胞のように分裂増殖しないからである。

またその作用が一時的作用か二次的作用かということもある。仮に腕の一部分を硫酸でひどくただれさせてしまったとする。もちろんその部位は硫酸のためただれたのだから一次作用によるものである。しかしそのただれによって、血管も壊れ、血液が手指のほうにいかなくなると、そのうちに手指の組織も壊死する。手指の壊死は硫酸のためではなく、血液が酸素を運んでこなかった二次的作用によるものである。

遅延効果ということも考える必要がある。これは慢性効果とは違うものである。慢性効果では中毒症状が現れた時点で、まだ毒と接触している。一方、遅延効果では、毒と接触がなくなってから何年か後に症状が現れる。たとえば、シリカ粉じんや石綿をたえず吸っていると、その後接触がなくなっても有毒作用が現れ、珪肺や石綿症になったりする。このようなことを遅延効果という。

アレルギー効果というものもある。ある薬に対してアレルギーを起こす人がいる。人によってそれぞれアレルギーに対する感受性が違う。そこで、ある薬に対して何の反応も起こさない人もいれば、そのために死亡したりする人もいる。ミツバチやアリに刺されて急死することもあるが、これもアレルギー反応のためであり、ハチ毒やアリ毒中の毒成分のためではない。

1.3 毒物の検査
 自殺でも他殺でも、人が死んだ場合、死者が毒によって死亡したかどうかを判定する。そのためにはいろいろな毒物検査が必要となる。死者が毒で死んだかどうかを検査する上で一番大切な試料は、血と尿である。特に血は最も重要な資料で、血液中の毒物を定量分析して、その量が血液中における最大治療濃度であるか、あるいは致死量であるかを見る。

 死体が埋葬された後でも。毒によって死亡したかどうかを調べるため、死体を掘り起こすことがある。埋葬後数週間ぐらいなら、血液は腐敗していても、薬や毒は分解していないことも多く、検出できる場合が多い。特に中性や酸性の化合物は分解しにくい。血液を抜いて防腐剤を血管を通して注入した死体では(アメリカの葬儀屋ではこれを行う。)埋葬された死体に血液はほとんど残っていないが、各臓器は埋葬後数ヶ月ぐらいの間腐敗しないことが多いので、毒物を検査することができる。死体の毒物の濃度は脱水のため、死亡直後の2,3倍になることが多い。防腐剤を注入した死体でもどうしても血液がほしい場合、心臓、脾臓、肝臓、腎臓を調べる。これらの臓器に血液が残っていることがあり、その血液から毒物を検査できる。それでも血液が取れない場合でも、目のガラス体液が得られれば、血液と同じように毒物を検査することができる。

 死体が完全に腐敗してしまっても検出に支障がないのは重金属とヒ素である。これらの物質は無機物として永久に残るからである。さらにこれらの物質は腐敗しにくい頭髪やつめに集まるので、それらからも検出できる。また死体が腐敗してウジがわいていたならば、そのウジも大切な試料で、水銀やヒ素はウジからも検出できる。死体も棺桶も全部腐敗してしまった場合でも、棺桶の周りの土壌から重金属やヒ素を検出すればよい。

1.4 他殺か自殺かの判定
 死体から毒物が検出できれば、その人は毒によって死亡したことになる。しかし、それだけでは他殺か自殺かの判断はできない。法廷の判決のためにはどちらか決められなければならなく、自殺か他殺かの決定は間接的に推論されることが多い。自殺でも他殺でも毒を使った人にはたいてい二つの条件が当てはまることが多い。一つは毒の入手可能性、もうひとつは毒に対する精通度である。毒殺は、食物や飲物の中に毒を入れる場合が多いので、殺された人に比較的容易に近づけるという条件が必要なことが多い。

フランス薬物学界の長老ルネ・ファーブル教授の著書『毒物学研究序説』に興味深い統計がある。毒殺者の犯罪動機を分類し、それぞれの割合を示しているのだ。以下のそのデータを挙げる。

 

家庭内のいさかい

……

43%

母親の手による幼児毒殺

……

24%

姦通

……

10%

復讐

……

9%

金銭上の欲望

……

9%

妨げられた恋愛

……

5%






更にファーブル教授は、毒殺の70%が女性によるもので毒殺が行われた場所の70%が田舎であるということも述べている。毒殺の70%が女性によるものという事実は、単に力の弱い女性にとって最も適当な殺人方法であったからなのか。それとも、何か別な理由があるのだろうか。毒殺の動機はさまざまだが、動機の見つからない毒殺も数多くある。それらは嗜虐的な欲求を満たすためのものであったり、気まぐれな「芸術」としての毒殺であるとしか考えられないものが多く含まれる。そのような毒殺を行った女性は、毒殺以外の犯罪をかたくなに否定する傾向にある。

1.5 薬物注射による死刑

 薬物注射以外の死刑の方法には主に四種類あり、電気椅子、ガス(青酸ガス)、絞殺(首吊り)、銃殺である。そのどれもが薬物使用に比べて、完全に死ぬまでの肉体的苦痛は非常に大きい。薬物注射による死刑は比較的新しい方法であるが、動物を安楽死させることは昔から行われてきた。

 現在アメリカで死刑に使われているのはチオペンタールナトリウムである。これは注射すると急速に効力を発揮する麻酔薬の一種で、鎮静剤や動物用麻酔剤としてよく使われるペントバルビタールナトリウムと構造式がよく似ている。ちなみにマリリンモンローが自殺に使ったのはこのペントバルビタールナトリウムである。

 死刑のためにはチオペンタールナトリウムが主薬であるが、死を完全にするためにもう二種類の薬が静脈注射される。第二の薬は臭化パンクロニウムといい、筋肉の合成緩和剤である。第三の薬は塩化カリウムで、これは心臓を完全に停止させるために使われる。

 薬による死刑は苦痛が少ないからといって反対がないわけではない。たとえばアメリカ医師会は会員の医師に対して医師が注射をするのは人命を救うためであり、殺人のための注射などするなと警告を発している。それで刑務所では毒の注射は医学技術員に行わせ、医師は死刑囚が死んだかどうか判断するだけであるので、死刑執行には関与していないと弁護している。ある死刑囚が「薬による死刑は苦痛が伴わないと証明されているわけではないから非法である。」と最高裁に訴えたこともあるが、最高裁はそんな証明をする必要はないといって却下し、その死刑囚は予定通り薬の注射で死刑になったという事例もある。

 以下はアメリカのオクラホマ州での薬物投与による死刑についてである。

 当日夜8時40分になると、死刑執行チームが執行室に待機し、囚人に時間が知らされます。囚人は手錠なしで部屋に案内され、自ら部屋に入り、自らベッドに上ります。その後、5名の担当者(警備の管理者)が手足首をベッドに縛りつけます。この執行室の奥の部屋には、薬物注射をおこなう人が待機しています。この専門家の身分は明らかにされることはありません。

 刑務所は死刑の執行を公開する義務の下にあり、この刑務所には24名定員の立会部屋(Watch room)があります。処刑室をガラス越しに見ることのできる立会部屋の1つは、マス・コミ(TV局、ラジオ局、新聞社等)関係者が立ち会うための部屋です。彼等は執行の場に必ず立ち会うことになっており、総勢で9〜10名の枠があります。地元のマス・コミは必ずそのなかに入ることになっており、注目される事件の場合には地元以外のマス・コミはくじ引きとなっています。地元政党新聞の記者によると、彼自身も立ち会ったことがあり、その時にはメモ帳とペンを貸与されたと聞きました。さらに、この報道関係者の部屋を挟み死刑執行室をガラス越しに見ることのできるもう1つの部屋は、被害者の遺族などが立会うための部屋です。このほか、死刑囚自身が7名の枠内で立会人を指名することができます。また、職務として、局長、判決を下した判事、検事、郡保安官なども参加することが要求されていると聞きました(但し、判事はめったに来ないとのこと)。

 死刑執行が行われるまでは、それぞれの部屋はガラスにシャッターが下ろされています。執行直前に、この執行を無効にする権限を持つ州知事に電話がかけられた後、看守長に電話をかけ執行の指示を得て初めて、そのシャッターがあげられます。この執行の前に死刑囚は2分間、好きなことを言うことができます。看守長によれば、多くの死刑囚は、遺族への謝罪と自身の家族への言葉を残すといいます。その後、(1) 50ccの薬剤を投与して睡眠を誘い、(2) 呼吸を止めるための薬剤を投与し、(3) 内臓、心臓の活動を停止させる薬剤を投与します。身体の大きな人であっても概ね3〜6分で死に至ります。

不老不死への科学