第2章 ~天然毒~
2.1 ジャガイモ
ジャガイモは新大陸の発見に伴って、原産地ペルーからヨーロッパへともたらされた。その時期はおよそ西暦1500年代の半ばとされるが、その詳細はよくわかっていない。だが、ジャガイモは栄養価もあり、保存性もよく、人々の飢えを救う大切な食物になったことは間違いない。
ところが、多くの人が知っているように、ジャガイモの芽には毒がある。その毒の正体はソラニンと呼ばれる物質である。ソラニンはジャガイモに含まれるアルカロイド配糖体で、ステロイド骨格をもつソラニジンと呼ばれるアルカロイドにソラトリオース(ラムノシル‐グルコシル‐ガラクトース)が結合している構造をとっている。
ソラニンはジャガイモの光の当たった緑色部、発芽部など細胞密度の高い所に特に多く含まれるため、ジャガイモの保存場所は冷暗所が基本である。また、これらの部分にはソラニンのほかにアトロピン様物質が存在するので、この部分の除去が不完全な場合に中毒を起こす場合がある。
平常時のジャガイモには1kgあたり0.04~0.12g程度のソラニンしか含まれていないので、特に害はない。ところが、発芽時には1kgあたり1.0g以上ものソラニンが含まれているため、摂取量によっては中毒症状を起こす。ソラニンの成人経口中毒量は0.2~0.4gであるため、ジャガイモの芽を200g程度食べれば中毒症状が出る恐れがある。また、ソラニンは水溶性であり、熱に対して比較的安定であるので、加熱調理では充分に分解されないことも覚えておかなければならない。
ジャガイモの芽に含まれるソラニンとアトロピン様物質の毒性機序は主に、
① 非特異性コリンエステラーゼ阻害作用
② アトロピン様作用(ただし、摂取初期のみ)
③ 運動中枢神経の麻痺作用
④ 局所刺激作用
の四つである。これにより引き起こされる中毒症状は次の通りである。
〈食後2~3時間〉
この期間には、アトロピン様物質によるアトロピン様作用が表れ、口の渇き、興奮する、幻覚が見える、痙攣を起こす、発熱が起こる、皮膚が乾燥する、脈が速くなる、不整脈を起こす、血圧が上昇する、昏睡状態に陥る、などの症状が出る。
〈食後7~24時間〉
この期間にはソラニンによるコリンエステラーゼ阻害作用が表れ、吐き気がする、腹痛がする、腹をくだす、頭が痛い、脈が遅くなる、呼吸困難に陥る、中枢神経の伝達が抑制される、などの症状が出る。
通常、これらの症状は一過性で終わることが大部分である。ところが重症である場合、腎不全、高血糖、発汗、流涎、呼吸抑制、循環障害、虚脱などの症状が続き、厄介である。
ところで、ソラニンはコリンエステラーゼを阻害するという点において、数年前世間を賑わした毒物、サリンと似ている。サリンが不可逆的コリンエステラーゼ阻害薬であるのに対して、ソラニンの効果は一時的なものであるので、可逆的コリンエステラーゼ阻害薬であるフィゾスチグミンなどと同じグループに分類される。
*尚、カビが生えて黒く腐ったものにはセプシンという物質が生じ、これを摂取すると重い中毒症状を引き起こす。腐ったジャガイモを食べるのは控えたほうがよい。
ソラニン
2.1.1 中毒の事例
最初にあげるのは1969年ロンドンの小学校で起こった例である。原因は夏休み中ずっと放置してあったジャガイモが、誤って給食の食材に使われたことであり、給食から6時間後、78人が倒れ、17人が入院、そのうち3人が重症であった。その症状の深刻さをその時のカルテが物語っている。
「ある生徒給食から20時間後、興奮してうわごとを言い始めた。入院当初は意識がなく、強くつねるとようやく反応するくらいで、顔面蒼白、落ち着きも無かった。体温37.5℃、脈拍毎分160でかなり弱く、呼吸数は毎分48、血圧は測定不能。高熱の割には手足は冷たかった。以後24時間、循環器は少しずつ回復したが、瞳孔は収縮したままだった。3日目いきなり饒舌になったが、脈絡の無いことを言うだけ、精神状態は相変わらず不安定で、時々幻覚を見るらしかった。4日後ようやく回復の兆しが見え始めた・・・」
また、1918年のイギリスのグラスゴーでは、ジャガイモを食べた61人が頭痛、嘔吐、下痢に見舞われ、そのうちの5歳の少年はひどい嘔吐の後腹部の血行が止まって死亡した。
朝鮮戦争当時の北朝鮮では、腐ったジャガイモを食べた住民に中毒が起こった。ある地区では382人が倒れ、52人が入院、そのうち22人はほぼ即死、重傷の人も1日以内に心不全で死亡した。顔と腹、手足が腫れ、唇や耳が紫になり、心臓や肝臓が肥大し、意識をなくした後、5~10日以内に死亡した人もいたということである。また、臨終の間際には興奮の極みとなり、猛烈な発作が起こって呼吸系の不全になっていたということである。
2.1.2 解毒法
ジャガイモの有毒成分の1部は水溶性であるので洗浄により若干除去することができるが、ソラニンは耐熱性であるので、食酢と煮て分解し、煮汁を捨てることによって中毒から逃れることができる。しかし酢で煮る解毒法は調理法が限られてしまうのであまりお勧めはできない。ソラニン中毒の予防法としては、ジャガイモの緑化が進行するような条件(直射日光や高温)でジャガイモを放置しない、出来るだけ早く食べる、調理時に皮を剥く芽はしっかり取る、などが挙げられる。もし、古くなったジャガイモが冷蔵庫やダンボールの奥から出てきても、もったいないとか思わずに捨てた方が無難である。
2.1.3 その他の毒性成分
ジャガイモには多くの強力な酵素作用阻止物質も存在する。特に蛋白分解酵素であり消化を助けるなどの働きをするトリプシン、キモトリプシンを阻害する比較的耐熱性の強い物質が存在することは知られている。ただし、通常は煮沸中に大部分が分解するので食品とする時には直接的な被害はない。
2.2テトロドトキシン
フグは冬の味覚の中でも最も美味しい食べ物の1つと言われているが、ご存知のようにその卵巣や肝臓にはテトロドトキシンという毒(通称フグ毒)が含まれている。そのため、毎年これが原因で数十件の食中毒が発生し、数人の人が命を落としている。ここでは、その大変恐ろしい毒物について述べる。
2.2.1 フグ毒研究
1909年、フグ毒は東京大学の田原良純に学術的に報告され、フグの学名Tetradontidae(四つの歯を持つ、の意)とToxin(毒の意)からTetrodotoxin(テトロドトキシン:TTX)と名付けられた。その構造は1964年、京都で開かれた国際天然物化学会議において津田ら(東大)平田ら(名大)Woodwardら(Harvard)の3グループにより別個に、そして同時に発表された。その構造はC₁₁H₁₇N₃O₈で表される。(アダマンタン様の縮環構造を骨格とし、最も合成の難しい化合物の一つとされている。) 物性としては、水にも有機溶媒にも難溶の弱塩基物質であり、熱に耐性をもつ。(300℃以上に加熱しても分解されないほどである。)
1972年に名古屋大学の岸義人(現Harvard教授)、2002年には同じく名大の西川俊夫によって全合成がなされた。
TTXはフグ以外の生物、例えばカリフォルニアイモリやヒョウモンダコ、ツムギハゼなどからも次々と報告された。これらの生物同士は系統発生的にかけ離れており、従ってこれらの生物が共通してTTX合成遺伝子を持つということは考えにくい。また、閉鎖系で養殖されたフグがTTXを持たないことから、TTXは外部起源であろうと考えられた。
その後、毒の起源と推定された海藻からTTXが検出されたが、サンプル毎のTTX含有量のバラツキが顕著であった。そこで更なる研究の結果、TTXは海藻に付着した海洋微生物に由来することが発見された。この微生物はシュワネラ・アルガと命名され、現在ではその他の海洋細菌のいくつかの種類(Vibrio alginolyticus ,V.damsela,Staphylococcus等)にもTTX産生が認められている。
このTTXが食物連鎖の進行に伴い生物濃縮され、フグの卵巣や肝臓に蓄積したものがフグ毒である。また、皮膚や腸、睾丸に毒をもつ種類のフグも存在する。
2.2.2 毒性
TTXのターゲットは運動神経と骨格筋(運動神経よりも阻害性は低い)であり、フグ中毒とは神経や骨格筋の麻痺である。これらの細胞には、細胞の興奮を支配するイオンチャンネルというタンパクでできた小孔がある。電気刺激を受けて細胞の内と外に電位差が生じ、この孔のゲートが開いて、ナトリウムイオンが細胞内に流れこむ。その結果、細胞が興奮(脱分極)して信号の伝達や細胞機能が調節される。TTXはこのタンパクに特異的に結合してゲートを塞いで脱分極を阻害、結果、神経伝達物質アセチルコリンの遊離を妨げる。
フグを食べて中毒を起こしたとき、まず起こるのは唇や指先のしびれである。ついでしびれは顔、手指から手足に広がり、ついには運動の麻酔が起こり歩行困難に陥る。これらの症状に嘔吐、頭痛が伴うこともある。更に症状が進むと舌や喉の麻酔が起こり、ものを飲み込むことも話すことも困難になり、血圧低下、呼吸困難に陥り、ついには全身の反射機能が消失し、最後には呼吸が止まって死に至る。マウス腹腔内投与のLD50(半数致死量:Lethal Dose 50%)は10μg/kgと報告されており、ヒトの致死量は約2mgである。これは有名な毒物である青酸カリ(シアン化ナトリウム)の致死量のおよそ100倍にも達する。また、一匹の雌フグの内臓は、マフグで33人、トラフグで13人もの人間を殺すことができる。このことからTTXがいかに強力な毒物であるかがわかる。
しかし、その一方でTTXには麻薬のような習慣性がないので、適切な量を用いればリュウマチや神経痛などに対する鎮静鎮痛剤として利用することもできる。
TTXの薬理・毒性学的性質は麻痺性貝毒群の主毒である、Saxitoxin(サキシトキシン:STX)と類似している。STXは米国において海洋生物毒として唯一化学兵器として登録されている代物である。STXもTTXと同じ結合部位に結合して、神経や骨格筋に存在するNa⁺チャネルを阻害する。STXとTTXの構造は窒素Nと水素Hからなる電荷を持つアミノ基を有するという点で類似している。
2.2.3 解毒法
フグ毒は摂取後数十分から数時間後に症状が現れ、24時間以内に死に至るケースも多い。そのため誤ってフグ毒を摂取した場合にはすぐに適切な処置をする必要がある。有効な処置としては、まず毒を口から吐き出させることである。次に人工呼吸や心臓マッサージを行うのがよい。そして、なるべく早く医者に見てもらうことである。
TTXに対する解毒剤や積極的な解毒法は現在のところ発見されていない。その上、熱に耐性をもつので調理によって毒を除くこともできない。しかし、先に述べたような処置を行えば、高い確率での救命が可能である。
2.2.4 フグはTTX中毒にならない
TTXという強力な毒物を内包しているにも関わらずフグはTTX中毒にならない。これはTTXの結合能が前述のナトリウムチャネルサブタイプ選択性を持つためである。すなわちフグのチャネルサブタイプにはTTXは結合しない。この選択性はTTX毒性が運動神経と骨格筋によって異なること、また神経筋接合部には直接作用しないことなども説明する。
電位依存性ナトリウムチャネルはα、β1、β2のサブユニット(タンパクの部品)からなるが、TTXの結合能はイオンチャンネルの構造を解き明かし、その機能を調べるための鍵物質として使われている。また、神経細胞上にはいろいろな神経受容体と結合するイオンチャンネルが混在している。そこで、フグ毒を用いることにより、電位依存性のナトリウムイオンチャンネルの作用を遮断することができ、ターゲットの受容体結合型イオンチャンネルの作用を調べることができる。したがって、TTXは神経機能研究にとって欠くことのできない研究用試薬とされている。
2.2.5 フグ食規制の歴史
豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役、1592年)に際し、一旦下関へ集結した兵たちは諸国から来ているのでフグの毒を知らず内臓も煮て食べてしまい、命を落とす者が続出した。そこでたまりかねた秀吉は町の辻々に禁札を立てさせ、これにフグの絵を描いて「この魚食うべからず」とその食用を禁じたのだった。これがわが国におけるフグ中毒取締令の始まりである。
その後江戸時代にもフグ食は禁止されていたのだが、庶民の間ではかなり食べられていたようである。特に、爛熟した元禄、文化文政の時代になると庶民だけでなく武士の間にもフグ食文化は広まっていった。このことは、当時の俳諧や浮世絵、落語などに記録として残されている。
しかし、明治時代になってフグ食は解禁されることとなった。これは、初代総理大臣の伊藤博文が下関を訪れた際にフグ料理の味に感激したためと言われている。
現在、フグ中毒に関しては、食品衛生法による法的規制と各都道府県別の条例によって取り締まりが行われている。しかし条例のない県も多く、そうした地方では、内臓の一部である肝臓が販売されているというのが実態である。このため、毎年のようにフグ中毒の犠牲者が出ているのである。
フグを食べて中毒にならないためには、フグ料理調理師免許をもつ専門店で食べることである。また、自分でフグを獲って料理して食べるのは、絶対に避けるべきである。フグ中毒には特効薬はなく、何百回食べても免疫になることはない。
まさに「河豚は食いたし、命は惜しし」である。
2.3トリカブト
トリカブト(鳥兜)は、キンポウゲ科トリカブト属の多年草の総称である。学名は、例えばトリカブトの一種のオクトリカブトがAconitum japonicum Thunbとなるように、トリカブト属を表すAconitumで始まる。トリカブトという名は、秋に咲く青紫色の花が舞楽の楽人が常装束に用いる冠の鳥兜に似ていることに由来する。英名はaconite、中国名は附子(ぶし)、烏頭(うず)である。根は倒円垂体で、茎の長さは100cmほどで、葉は有柄で互生し掌状に3分裂している。世界に300種余り、日本には北海道から九州にかけて30種余りが自生しているが、変異が強くて分類が困難である。温帯に多いが暖帯にも進出し、湿気の高い山野に広く分布している。また園芸用としても栽培されている。ギリシャ神話には、ケルベロスの唾液がトリカブトになったという話があり、また日本においても、「附子」という狂言があったり、烏頭が秋の季語であったりするなど、古来より知られているトリカブトであるが、その最大の特徴は、猛毒をもつということである。アイヌ民族などはこの毒を矢毒として狩に利用していた。また、古代ローマでは王位継承をめぐって継子の暗殺に使われ「継母の毒」、ドイツでは「悪魔の草」の呼び名がある。
2.3.1 猛毒としてのトリカブト
(1) 毒性
トリカブトには全草に毒があり、根、葉、茎の順に毒性が強い。トリカブトの毒成分はアコニチン系アルカロイドで、その代表的な成分であるアコニチンは、ナトリウムチャネルに結合し、持続的に活性化させることで、脱分極によって興奮細胞に流入したナトリウムイオンが細胞外へ流出するのを妨げ、脱分極を持続させ、興奮細胞を麻痺させる。すなわち、麻痺作用がある。そのためトリカブトによる死因は、専ら心室細動や心停止である。精製された純粋なアコニチンのヒトの致死量は3~4mgで、これはトリカブトの葉1gにあたる。アコニチンは、健常な皮膚や粘膜からも吸収される。
※アコニチンとは?
無臭で無色または白色の柱状結晶粉末。融点は202~203度で、クロロホルム、ベンゼンに可溶、エーテル、乾燥エタノールに微溶であるが、水、石油エーテルに不溶である。アルカリで加熱するとすみやかに加水分解し、酢酸、安息香酸を与える。そのためトリカブトの毒で殺された動物の肉は食べることができる。
(2) 摂食時の症状
摂食後10~20分以内に口腔、咽頭に灼熱感やしびれが起こり、次第に手足のしびれ、めまいが現れる。その後、嘔吐が起こり、起立不能になる。そして血圧低下、呼吸困難、不整脈、痙攣が起き死亡する。半時間~6時間で循環するため、死亡の大多数は6時間以内である。24時間生存すれば回復することが多い。
(3) 処置
トリカブトの毒を口にしてしまったときにまず行うこととしては、催吐し、病院に行くこと。医療機関においては、トリカブト中毒に対して解毒剤や拮抗剤、特別な治療手段がないため、催吐、胃洗浄、吸着剤と塩類下剤の投与をして毒の除去をし、不整脈の治療や抗痙攣剤、鎮痛剤の投与などの対症療法、呼吸管理を行って治療する。
2.3.2 トリカブト中毒の事件・事故
(1) 誤食
トリカブトは山野に自生しており、若葉がニリンソウやモミジガサ、ゲンノショウ、ヨモギとよく似ているため、誤食事故が起きている。このような事故の防止策には、専門家から正しい知識と鑑別法を教わること、判別困難なものは食べないこと、葉や根だけで識別することが困難なことを心得ることなどが挙げられるが、それでも採った山菜の中にトリカブトが混入してしまう可能性がある。トリカブトの葉には強い苦味がある(ゆでると苦味が軽減される)ので、採った山菜を口にして異常な苦味を感じた、または舌に痺れや麻痺を感じたときには、トリカブトが山菜に混入した恐れがあるので直ちに吐き出し、採った山菜を持って病院に行き受診するのがよい。
(2) 蜂蜜
1992年岩手県で林業作業員が山で蜜蜂の巣を見つけ、食したところ中毒症状が出た。蜂蜜にトリカブトの花粉や蜜が含まれていたのである。トリカブトの蜜量は少なく、蜜を集めるには効率が悪いので、蜜蜂は他の花の蜜を集めるが、天候異変などでよい花が少ないと、トリカブトの蜜も集めるようになる。このため蜂蜜にはトリカブトの毒が入ってしまう恐れがある。そこで問題になるのが市販されている蜂蜜なのだが、食べても安全なようである。というのも、一般に養蜂家ではトリカブトの開花時期ではない春から夏にかけて採蜜をするため毒の混入の可能性が低いからである。また養蜂家では、特定の花の蜜を集めるために、その開花直前にすでに集まっている蜜を除去してしまい、開花時期に集まった蜜を採るということも行っているので、さらに毒の混入の可能性は低くなる。
(3) 殺人事件
1986年に起きたトリカブトを使った保険金殺人事件が起きた。被害者の死因は、当初は急性心筋梗塞と診断されたが、その後トリカブト中毒による急性心不全と判明した。トリカブト中毒の発現は早い(10~20分)ので、中毒の発現の1時間以上前に被害者と別れた容疑者はアリバイがあることになるが、トリカブトにある細工をすると容疑者でも犯行が可能になることが後に判明した。その他にも1989年にはトリカブトの入ったクズモチによる事件が起こり、埼玉県本庄市の保険金殺人事件にもトリカブトが使われている。
2.3.3 薬としてのトリカブト
中国では、2000年以上前からトリカブトを加熱して減毒する方法(修治)が知られている。減毒したトリカブトには、新陳代謝機能の回復、強心、利尿作用があり、他の生薬と配合して身体四肢関節の麻痺、疼痛、虚弱体質者の感冒や腹痛、下痢、大量出血、軽度の新機能の衰弱などに応用されている。漢方では、トリカブトの根を乾燥させた生薬のうち、子根を用いたものを附子、母根を用いたものを烏頭という。
最後にアコニチンの構造式を示す。
参考文献
藤田正一編 「毒性学」 朝倉書店(1999)
「万有百科大事典」 小学館(1972)
「世界大百科事典」 平凡社(1988)
西勝英監修 「薬・毒物中毒救急マニュアル」 医薬ジャーナル社(1979)
Anthony T.Tu編著 「事件からみた毒-トリカブトからサリンまで-」 化学同人(2001)
化学大辞典編集委員会編 「化学大辞典」 共立出版株式会社(2001)
日本中毒情報センターホームページ http://wwwt.j-poison-ic.or.jp/
玉川大学ミツバチ科学研究施設ホームページ http://www.tamagawa.ac.jp/HSRC/
2.4 リシン
リシンは、自然界に存在するタンパク質で、トウゴマの種子に含まれている。このトウゴマは、古代エジプトの時代から栽培されていた。このトウゴマの種子からとれるヒマシ油を潤滑油として使っていたからだ。リシンは、このヒマシ油をしぼったあとのかすに含まれている。いまでは、生化学的に合成することが可能となっている。
2.4.1 リシンとは
リシンは、19世紀末にエストニアのスチルマークが生成したタンパク質である。リシンは、分子量30000(A鎖)と33000(B鎖)の2つのタンパク質鎖からなり、これまで知られていた天然有機化合物のなかでも毒性の強い化合物の一つである。また、この毒性から、「世界五大猛毒」の一つとされている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Ricin_structure_stereo.png リシンの立体構造
青 = A鎖
緑 = B鎖
赤 = 糖側鎖
リシンの構造式
蛋白質としては、糖鎖を持つ糖蛋白質のひとつ。267アミノ酸残基からなるAサブユニットと、262アミノ酸残基からなるBサブユニットからなり、Aサブユニット259位のシステインとBサブユニット4位のシステインの間に形成されるジスルフィド結合により両鎖は結合している。Bサブユニットは2本の-Gal-Glcの2糖残基とからなる糖鎖と、2本の-Nag-Nag-Man(-Man)-Man5糖残基からなるオリゴ糖側鎖を持つ。酵素としてはEC.3.2.2.22として知られ、ラットの28S rRNAのAサブユニット4324番目のN-グリコシル結合を加水分解する。 なお、
Gal D-ガラクトース
Glc グルコース
Nag N-アセチルグルコサミン
Man α-D-マンノース
である。リシンは、安定した化合物なので、生物兵器としても利用されている。生物兵器としてリシンは、Wという名前が付けられていたらしい。
2.4.2 リシンの毒性
リシンは、体重1kgの致死量がわずか0.03mgである。これは、コブラ毒の2倍に相当する。毒作用は、服用後10時間程度で現れる。経口投与(口からリシンが取り込まれる)ときの致死量であって、非経口投与(口以外からリシンがとりこまれる)ときの致死量はわかっていない。ただ、経口投与よりも、非経口投与のほうが、毒性が高くなるようです。
2.4.3 リシンはどのような効果を人間にもたらすのか
リシンは、人体を2段階に分けて攻撃してくる。 まず攻撃を仕掛けてくるのは、リシンの中のB鎖だ。 体内に入って来たリシンは、体内の細胞に付着。 そこでB鎖は、細胞の表面にある「受容体(レセプター)」と言う物と結合する。(受容体と結合したB鎖は、何をするかと言うと、本来なら受け入れられないはずのA鎖を、細胞の中へと送り込む。
本来はなら細胞内に入らないA鎖が入ると、細胞内のタンパク質合成を担っているrRNAを切断してしまう。そうすることによって、細胞内でのタンパク質合成を停止させて、死にいたらしめる。 以前はやった「O157」も、このタイプのものだ。(つまりベロ毒素が細胞内のrRNAを破壊して有害なものとなる。)
2.4.4 リシンが体内にはいるとどうなるのか
症状は、リシンがどのようにして体内に入ってきたのかで異なる。(主に経口的に摂取したか、吸入されて摂取したのか、注射による摂取したかである。)
まず、経口摂取の場合、ほかの摂取経路に比べて、毒性が一番小さい。理由として考えられるのが、吸収がわるいためと、消化管内にて、分解されてしまうからである。症状は、まず、摂取から2~3時間後に吐き気、嘔吐、腹痛が起こる。そして、下痢、血便、無尿、痙攣、瞳孔の散大、発熱、頭痛、血圧低下がおこる、さらにのどが痛くなり、のどが乾く。しばらくしてショックをきたし、少なくとも3日以内に循環不全で、死亡する。
病理学的な所見では、胃に多発性の潰瘍と出血があり、また、腸間膜のリンパが壊死し、
肝臓、腎臓、脾臓の障害が起こっている。
次に、吸入された場合。これは、人のデータがないのでよくわかっていないが、動物実験によると次のような症状が現れると考えられる。まず、吸入してから3時間すると、せきがでたり、胸に圧迫感を感じたり、食欲不振、悪心、呼吸困難、筋肉痛がおこる。時間がたつにつれ、これらの症状は悪化する。しばらくすると、肺や気管の炎症がさらに強くなり、呼吸困難やチアノーゼをきたすようになり、36~48時間後には、呼吸不全や循環障害で死亡する。このとき、吸入する量が多ければ多いほど、死亡までにかかる時間が短くなり、致死率も 高くなることがわかっている。
さいごに、注射された場合、注射されてから4~6時間ほどすると、インフルエンザ様の症状が現れる。また、全身がだるく、筋肉痛がみられる。ひとによって、吐き気や嘔吐もみられる。これらの症状が2日くらい続く。そして、血圧がさがり、注射された付近の筋肉やリンパ節が壊死を始め、消化管が出血し、肝臓や脾臓の障害がおこり最終的には、多臓器疾患で死亡する。
2.4.5 リシンの治療法
リシンには、未だに解毒剤が存在しない。ワクチンも存在しない。また、構成物質もききかない。そのため、治療法は、対症療法しかない。吸入してしまった場合には、酸素吸入をしながら、消炎剤を与え、心肺機能を維持するしかない。経口の場合は、胃洗浄とともに、十分な輸液を行う。注射された場合は、対症療法を行いながら、多臓器不全の治療をするしかない。曝露した場合は、水と石けんでよくあらう。
2.4.6 リシンを使った事件
1978年、ブルガリア人でイギリスに亡命したマルコフ氏(BBC放送局)とフランスに亡命したコストフ氏(新聞記者)が、相次いで死亡した事件があった。マルコフ氏は、通勤の途中、突然大腿部を何かで刺された感じがし、振り返ると1人の男が傘を拾って立ち去るのを不思議に思ったそうだ。彼は、しばらくして高熱・嘔吐という症状に襲われた。そして翌日になるとショック症状があらわれて、リシンをうたれた2日後に死亡してしまった。コストフ氏は、パリの地下鉄の中で背中に針で刺された感じがあったそうだ。しかし、彼の場合は処置が早かったために一命をとりとめた。この2人に共通する点は、
① ブルガリア政府にとって厄介物であった。
② マルコフ氏は大腿部に、コストフ氏は背中に死後、小さい金属の入れ物が発見され
た。
③ スコットランドヤード(イギリス)の調査だと、この入れ物の内から粉末を発見。細菌化学戦の専門家が検査した結果、精毒物のリシンだった。
この2人は、暗殺用の「毒入り傘」の先端から、「毒入りカプセル」が発射されて殺されたのだ。このリシンは、ロシア政府がブルガリア政府に渡したと考えられている。この二人の症状から、皮肉なことにリシンを投与したときの症状が把握できた。
2.5 ストリキニーネ
Strychnine C21H22N2O2
ストリキニーネは、「マチン」と呼ばれる樹木の種子に含まれているアルカロイドであり、硬直性痙攣毒である。
アルカロイド(alkaloid) とは、分子内に窒素を含む塩基(アルカリ)性の植物または動物成分の総称。alkali (アルカリ)、oid(~のような物)で「アルカリのようなもの」ということからアルカロイドと呼ばれている。アルカロイドは強い生物活性を持つものが多く、植物毒の多くはアルカロイドである。また薬用植物の主成分もアルカロイドであることが多く、医薬品の原料となっている。
マチン(和名。学名はストリヒノス・ヌックス・ホミカStrychnos nux-vomica L.)は、インド、スリランカ、インドネシアなどの東南アジアからオーストラリア北部にかけて分布するフジウツギ科の常緑高木である。葉は対生し革質、広楕円形。緑白色で円筒状の小花を開く。果実は蜜柑のようなオレンジ色を呈していて、果皮をむけば白いゼラチン様の果実があり、中には平べったい数個の種子がある。
この植物の種子は、「馬銭子(まちんし)」、「番木鼈(ばんもくべつ)」または「ホミカ(Nux vomica)」と呼ばれる。生薬名は、「馬銭(まちん)」である。種子は径2cmほどの円盤状で、その中に2~3%のアルカロイドが含まれている。そのうちの50%が、ストリキニーネである。
ストリキニーネを単離するには、種子を煮沸アルコールに入れ、その溶液を蒸留し、残渣へ硝酸を加える。すると、白色結晶性の難溶性物質ストリキニーネを生ずる。硝酸と反応させると硝酸ストリキニーネという無色無臭の猛毒に変化する。
1820年、このアルカロイドを初めて化学的に遊離させたのは、ペルティエおよびカヴァントゥという二人のフランスの薬学者であった。
また苦いことでも有名で、舌の鋭敏な人は40万倍の希釈液でも苦みを感じると言われている。
2.5.1 ストリキニーネの毒性
致死量は約1mg/kgの猛毒。これはLD50(Lethal Dose)で考えたものである。LD50とは、100例の検体中、半数の50例が死亡した時の服用量である。
ちなみに他の物質のLD50(mg/kg)は、青酸カリKCN 4.4 、ニコチン 30~60 、サリン 0.42 、テトロドトキシン(フグ毒) 0.01 、ダイオキシン 0.001 などである。
2.5.2ストリキニーネのもたらす症状
摂取すると15~45分でストリキニーネ特有の強直性痙攣を起こす。頭を後方へのけぞらせ、手を震わせ、全身を弓なりに曲げ、後頭部と踵で全身を支えているような奇怪な姿勢を呈する。例えると、レスリングのブリッジのような格好をする。破傷風と似た症状を示す。口から泡を吹き、 恐ろしい悲鳴をあげる。嘔吐、口中の緊張感、咀嚼困難などの症状もある。
ストリキニーネが致死量に達しない場合には、以上のような症状が続く。昏睡状態に陥ることがなく一般に意識は明瞭なので、その間の苦痛には耐えがたいものがある。一時小康を取り戻しても顎や手脚の痙攣を繰り返し、患者の身体や寝具に少し触っただけでも、再び激しい全身痙攣を引き起こすことになりかねない。それほど刺戟に敏感なのである。
もし致死量を摂取すると、呼吸麻痺または循環傷害を起こし死亡する。これは痙攣によって呼吸困難に陥ることからの窒息死である。
2.5.3 ストリキニーネの作用メカニズム
アルカロイド類は主に神経ホルモンに作用を及ぼすことで毒性を示す。動物の筋肉をコントロールしているのは、神経繊維の末端部から分泌され神経の情報を伝達する役目を持った神経ホルモンである。
ストリキニーネは、脊髄のシナプス後抑制性ニューロンから放出されるグリシン(抑制性伝達物質)と競合的に拮抗してグリシンの受容体を遮断するため、抑制機構が失われる。そのため、神経興奮性を高め、わずかな刺激により筋の収縮運動をきたす。この運動は協調性を失い、また全身に拡がり骨格筋全般の強直性痙攣を引き起こす。
脊髄反射のうちの伸張反射を修飾する働きを持っている、脊髄内にあるレンショー細胞という抑制性ニューロンの運動抑制作用を遮断している。これはレンショー細胞で働く神経ホルモンがグリシンであるためである。グリシンに作用するのはストリキニーネぐらいで、他の植物毒には見られない特徴である。
2.5.4 ストリキニーネに対する治療法
痙攣重積発作(意識が回復する前に痙攣を繰り返す。または痙攣が30分以上持続する)は緊急に治療が必要であり、30~60分以内に発作のコントロールをして終息させることが重要である。治療には通常用いられる抗痙攣薬を用いる。
① 気道確保 酸素投与や気管挿管(必要なら筋弛緩剤を使う)を行う。
② 血圧を測る 低血圧の時は静脈を確保し、必要な輸血を行う。高血圧の時は痙攣がコントロールされるまで治療しない。
③ 血糖値を採血後、グルコースやビタミンB1を静注。
④ 抗痙攣薬を投与。 ジアゼパム(diazepam)など、痙攣の持続の様子によって適宜使用していく。抗痙攣薬は大変効果があるが、副作用もある。副作用で多いのは眠気だが、小児では逆に多動になることもある。
呼吸困難や心停止の状態になるまでにはある程度時間がかかるので、全身痙攣のうちに治療を受ければ助かる確率が高い。心停止まで進んでしまえば、脳障害が残る恐れがある。またストリキニーネ中毒者の痙攣が始まった場合、ストリキニーネの分解排泄は早いので消化器官には影響がない。
痙攣している時に無理に吐かせないこと。
また補足としては、この毒で死んだ動物の肉を食べても中毒にはならない。
2.5.5 ストリキニーネの利用
ストリキニーネを含むホミカは、毒性が極めて強いので生薬をそのまま薬用にすることはなく、ホミカエキス、ホミカチンキ、硝酸ストリキニーネの製造原料とする。
ホミカエキス、ホミカチンキは消化不良、胃下垂症、胃腸の機能不全などに健胃剤として処方に配合して使用し、硝酸ストリキニーネは中枢神経興奮薬として様々な症状に用いられる。
また犬の安楽死や殺鼠剤として使用され、ネズミ、トリ、モグラなど哺乳類、鳥類などの駆除によく使用されている。
インドネシア、マレーで用いられた矢毒はストリキニーネである。
2.5.6 ストリキニーネを使用した事件
*1993年4月から連続して起きた埼玉愛犬家殺人事件では硝酸ストリキニーネが用いられた。犬猫繁殖販売業者(59)と前妻のペット販売会社社長(44)が、犬の代金返還を迫った会社役員=当時(39)=に犬の安楽死に用いられる毒物の硝酸ストリキニーネを栄養剤と偽って飲ませて殺害、遺体を切断し、焼却して捨てたのを初め、4ヶ月の間に埼玉県内の愛犬家ら4人を相次いで殺害した事件。
*2000年3月には東京都中野区の路上に硝酸ストリキニーネ入りのシューマイが置かれる事件が相次ぎ、これを食べたとみられる飼い犬2匹が死亡している。
またこのようなものの他、駆除のために置かれたストリキニーネを誤食したペットが被害を受けることがある。
*この毒薬がヨーロッパに渡ったのは17世紀以降の事である。19世紀以降、野犬駆除のかたわら毒殺に度々用いられている。ストリキニーネは推理小説などでも有名であり、アガサ・クリスティーは何度かストリキニーネを用いている。しかし激しい苦味があるので、それを感じさせないために、殻つきの生蛎(かき)の下にオブラートに包んだストリキニーネを忍ばせるという方法を取ったりしている。
*1521年、マゼランがセブ島の近くのマクタン島で土民の毒矢で悲壮な最期をとげるが、その毒はストリキニーネが主に含まれているものであった。
2.6 ボツリヌストキシン(ボツリヌス菌)
地上最強の毒素とも言われるほど猛毒のボツリヌストキシンは、ボツリヌス菌が産生する毒素である。ボツリヌスの名はラテン語でソーセージ(腸詰)を意味する botulus に由来し、これはボツリヌス菌による食中毒が最初にヨーロッパで認識された19世紀末には、自家製のソーセージ(腸詰)で食中毒となる人が多かったことによる。
ボツリヌス菌は偏性嫌気性(毒性の強い酸素ラジカルを除去できないため、酸素のない状態でしか生きられない)の大型の細菌であり、生育に向かない環境では芽胞を形成して生き残る。ボツリヌス菌は湖底や海底、泥中や土壌中に広く分布しているが、動物の死体、びん詰、缶詰、真空包装食品、ハムやソーセージなど栄養に富み、なおかつ嫌気状態という好適な環境に出会うと、発芽(芽胞から普通の栄養型細菌に変化すること)し増殖し、神経毒素を作る。また芽胞は耐久型細胞とも呼ばれ特殊な構造をしており、酸素や消毒薬、紫外線などの過酷な物理化学的環境因子に対し強い抵抗性を示し、100℃で1時間加熱しても死なない。
ボツリヌストキシンは毒素の構造の違いによりA型からG型まで七種類に分類され、またボツリヌス菌もその産生する毒素に沿ってA~G型に分類される。一般的には一つの菌は一種類の毒素しか作らない。このうち、A、B、E、F型でヒトは中毒を起こし、ヨーロッパやアメリカではAとB型、日本ではE型が圧倒的に多い。A型からG型までの七種類いずれも神経毒を産生し、神経終末の神経―筋接合部に作用する。
2.6.1 感染源
自家製の海産物や、保存状態の悪いびん詰などから感染する。特に長期間流通する海外みやげの真空パックされた魚の燻製や、酢漬け、塩漬けなどは注意が必要である。これまでに発生した例では、いずし、自家製の野菜や果物の缶詰、輸入したキャビア、自家製の魚の燻製、辛子蓮根、ソフトチーズなどがある。
また乳児ボツリヌス症と呼ばれるものもあり、これはボツリヌス菌芽胞が混入したはつみつやコーンシロップを乳児が摂取し、嫌気的条件の腸管内で芽胞が発芽・増殖し毒素を産生することによる。成人と違って、毒素ではなく芽胞を摂取しても発症することが特徴的である。
2.6.2 ボツリヌストキシンの毒性
純粋な1グラムの分量は、100万人以上のヒトを殺す分量であるとされている。ボツリヌス菌毒素の致死量はよくわかっていないが、サルの研究から、体重70kgのヒトの純粋なA型毒素の致死量は、静脈注射あるいは筋肉注射で0.09-0.15μg、吸入で0.70-0.90μg、経口摂取で70μgと推定される。また他の研究ではボツリヌストキシンの致死量は青酸化合物の百万分の一、ダイオキシンの二千分の一との報告もある。
日本においては、厚生労働省「食中毒事件発生状況」によれば、ボツリヌス菌による食中毒は、平成8-11年(1996-1999年)の4年間で7件発生し、総計26人の患者と0人の死者が出ている。
2.6.3 体内での作用機構
ボツリヌストキシンの全ての毒素は分子量15万の一本鎖タンパク質で、これが生成後プロテアーゼの作用によりニックと呼ばれる切れ目が入り二つの断片に分かれ、これらはS-S結合により繋がっている。さらに食品中ではボツリヌストキシンは様々なサイズの無毒成分と複合体を形成する。
食事と共に入った複合体は胃を通過し小腸で吸収される。この時無毒成分は毒素を胃酸から保護する役割を担う。体内に吸収されると毒素は無毒成分から解離し血液と一緒に流れて神経―筋接合部に到達し、筋肉を収縮させる神経の細胞内部に侵入し、神経細胞からのアセチルコリンの放出を停止させる。具体的には毒素は神経細胞とC末端側断片を介して結合しエンドサイトーシスにより被膜小胞として細胞内に取り込まれる。次にC末端側断片の作用により被膜小胞に小孔が形成され、N末端側断片が細胞質に移行する。このN末端側断片が毒素本体(亜鉛イオンを活性中心に含む金属プロテアーゼ)で、それぞれの標的タンパク質(型によって異なる)の限定した箇所でペプチド結合を加水分解し、それらの機能を失わせる。これにより神経細胞におけるシナプス小胞膜とシナプス前膜の融合を阻害し、アセチルコリン放出を停止させる。この結果神経から筋肉への情報伝達が遮断され、筋肉が弛緩して動かなくなる。
2.6.4 ボツリヌス症の症状
ボツリヌストキシンを含んだ食物を食べてから、6時間から2週間の間(大部分は12-36時間)に症状が出現する。ボツリヌス症の症状は、モノが二重に見え、まぶたが下がり、発音が上手く出来ず、モノが飲み込みにくくなり、のどが乾き、力が入らなくなる。また脱力感、倦怠感、めまいを感じたり、嘔吐・嘔気・腹痛・下痢などの胃腸症状も見られる。運動を行う筋肉が動かなくなってしまう運動神経の麻痺が目立つが、主に頭部に分布する脳神経の領域から運動神経の麻痺は出現する。やがて四肢に力が入らなくなり、まず肩から始って、肩からひじの間、ひじから手まで、腰から膝の間、膝から足までと、体を下降するように進行し増強する。そして横隔膜や腹筋などの筋肉が麻痺して動かなくなり、呼吸が止まってしまうことが死への直接の原因となる。人工呼吸器による呼吸の補助をすることにより、多くの患者は数週間から数ヶ月で回復するので、現在では致死率は約5%となっている。回復した人も数年間息切れや疲れやすさが残ることがある。
また傷にボツリヌス菌が感染し毒素を産生することによって起こるボツリヌス症もある。この症状はボツリヌス菌による食中毒と同じだが胃腸症状は見られず、潜伏期は受傷後4-21日と言われている。
2.6.5 治療法
乳児ボツリヌス症以外のボツリヌス症に対しては抗毒素(毒素に対する抗体)が治療に使われ、早期に投与されれば症状がひどくなるのを防ぐことが出来る。抗毒素は吸収されて血液中にあるボツリヌス菌毒素に結合して、不活性化する。神経細胞にボツリヌス菌毒素が入り込んでしまった段階では、抗毒素は毒素の不活性化は出来なくなる。毒素の型と抗毒素の型は一致する必要があり、アメリカ陸軍はA・B・C・D・E・F・G型に対する7価の抗毒素を持っている。また、抗毒素はウマの抗体であり、アナフィラキシーなどのアレルギーの問題を生じる恐れがある。呼吸管理を含む対症療法も有効であり、抗血清がない場合、または神経細胞に毒素が入り込んでしまった場合もこれによりほとんどが治癒しうる。1950年以前ではボツリヌス症は60%の致死率があったが、呼吸管理法が進歩した今日では致死率5%以下となっている。
またこのボツリヌストキシンは、自分の意志とは関係なく筋肉が動いてしまう不随意運動の治療に近年利用されている。まぶたが痙攣して目を開けにくくなったり極端に瞬きが多くなる眼瞼痙攣、顔の半分全体が痙攣する半側顔面痙攣、首がひとりでに傾いてしまう痙性斜頚の患者に、極めて少量のボツリヌストキシンを筋肉注射することで痙攣を抑えることが出来る。
2.6.6 事件
ベルギーでは葬式には楽団が葬楽を演奏する伝統があり、1895年12月、葬儀の34名の楽士が塩漬けにしたハムを含む昼食をとり、その翌日からその大多数がボツリヌス中毒特有の麻痺を起こし、その内13名が重症となり、内3名が死亡した.この時ヴァン・エルメンゲム博士はハムの残りと死亡者の脾臓から嫌気性有芽胞菌を分離し詳細に調べ、この菌がボツリヌス症の原因菌であることを突き止めボツリヌス菌と命名した.
日本では、北海道や東北地方で好んで作られる魚の発酵食品「いずし」や「きりこみ」を原因するものが多く、特に自家製のものが多い。また昭和59年に熊本県産の真空包装の土産品「辛子蓮根」で、14都府県下で33名(うち9名死亡)のA型ボツリヌス患者と3名の疑似患者(うち2名死亡)が発生した。これは辛子または蓮根に付着していた芽胞が真空パック中で発芽増殖して毒素を生み出したと考えられている。
またボツリヌス毒素は炭疽菌・天然痘・ペストと並んで生物兵器テロに用いられる危険性が高いと言われている。実際以前米軍でも兵器化されたことがあるほか、イラクでも保有していることが国連の調査により判明している。しかしボツリヌス毒素は非常に強い毒性を持つものであるが、安定性は低い。例えば、空気中では12時間以内、さらに日光下では1~3時間で毒性を失う。また熱にも弱く、80℃、30分間で失活する。水中では0.4mg/Lの塩素濃度(通常の水道水残留濃度)では20分間で84%が失活する。