3章 ~毒ガス~

3.1 一酸化炭素

一酸化炭素は、酸素が不十分な環境で物が燃焼する“不完全燃焼“の際に発生する、毒性の高いガスである。暖房や車の排気の最中に発生するこのガスは、無味無臭で空気中に混在する性質を持つので、無意識に体内に吸収してしまうケースが多い。それを利用して、一酸化炭素は自殺や他殺としても多用されている。最近ではネットを通じて集団自殺を行うという事件が多く、問題となっている。

3.1.1 性質

 構造式:C=O

 分子量:28 

 空気との比重:0.967(空気より少し軽い程度)

 酸素に比べて約200倍のヘモグロビンに対する親和性を持つ。

 一酸化炭素によって酸欠状態になっても「息苦しさ」は感じない。(息苦しさは空気中の二酸化炭素濃度の上昇によって引き起こされる)

3.1.2 毒性

呼吸によって体内に吸収した酸素はヘモグロビンと結合して全身に運ばれ、様々な機能を担っている。一酸化炭素はヘモグロビンに対し、酸素に比べて約200倍という高い親和性を持つ。よってヘモグロビンは酸素よりも一酸化炭素と優先的に結合するので、全身に酸素が行き届かなくなり、酸素欠乏状態となる。一酸化炭素を体内に吸収してしまうと、心臓と肺が損傷を受けて心肺機能の低下を招き、意識障害を起こす。また脳内にも損傷を及ぼし、生命維持を担っている脳幹が障害を受け、最悪の場合死に至ることもある。

3.1.3 一酸化炭素の特徴

通常、一酸化炭素は大気中に0.5ppm存在するが、大気中濃度100ppm(0.01%)において中毒症状が出現し、1500ppm(0.15%)で死亡するケースがある。初期症状としては頭痛、吐き気、眩暈、倦怠感などだが、呼吸数や脈拍の増加が起こり、意識があっても体が自由に動かなくなる。更に症状が進むと意識が消失し、呼吸が停止して死に至る。

また、一酸化炭素中毒死をした死体は普通の死体とは違い、血色が良いという特徴がある。これは、一酸化炭素と結合したヘモグロビン(CO-Hb)は鮮紅色を示すという理由からである。

また、死に至らず生き残った場合、酸欠のため脳組織に永久損傷を受け、重度の後遺症(精神障害、植物人間等)が残る場合がある。また、意識が戻りその時はまったく症状が見られなくても、事故から数日あるいは数週間後に、記憶障害や人格変化など様々な神経症状が現れることがある。

 

大気中濃度(%)

症状

0.01

数時間の呼吸後でも目立った症状はない。

0.02

1.5時間前後に軽度の頭痛を引き起こす。

0.04~0.05

1時間前後で頭痛、吐き気、耳鳴りなどを起こす。

0.06~0.10

1~1.5時間前後で意識を失う。

0.15~0.20

0.5時間~1時間前後で頭痛、吐き気が激しくなり、意識を失う。

0.40

短時間でも吸引すれば、生命が危険になる。

1.28

6~7分で絶命する。

 

3.1.4 一酸化炭素中毒に対する救急処置

 一酸化炭素中毒患者に対する救急措置は以下の通りである。

1) 安全な場所へ運び、呼吸を確認し、なければ人口呼吸をする。ゆっくり2回、すばやく3回のペースで息をふきこみ、脈がない場合は心臓マッサージをする。

2) 意識が戻れば毛布でくるみ体温の低下を防ぎ、安静に寝かして救急車を待つ。

3) 数日、あるいは数週間してから症状が現れる場合があるので、軽症でも必ず医療機関に連れて行く。

3.1.5 一酸化炭素による事件 

 ① 1973年3月20日 山形県

農業を営む46歳の男が、保険金目当てに43歳の妻をビニールハウスと練炭コンロを用いて一酸化炭素中毒で殺害した。最終的に無期懲役の判決が出たこの事件は、一酸化炭素を用いた殺人事件として初めてのケースだった。

 

② 2004年10月12日 埼玉県

20代の男女7人が同じ車の中で、練炭コンロを用いて集団自殺をしているのが見つかった。これらの人は何れも集団自殺サイトで知り合ったものだとみられた。

 

③ 2005年4月9日 鹿児島県

地元の中学生4人が、防空壕跡とみられる洞窟において一酸化炭素中毒で意識を失い、次々に死亡した。4人は換気が不十分なままで洞窟の中で焚き火をしたとみられた。横穴には避難用の防空壕によく見られる通気口がなかったため、酸素が充分に行き届かないまま不完全燃焼となり、一酸化炭素が発生したと検証された。

3.2 塩素ガス

塩素ガスとは、所謂「混ぜるな危険」という注意書きのある塩素系漂白剤を、酸性の洗剤などと混ぜたときに発生する気体であり、第一次世界大戦ではドイツ軍によって世界初の毒ガス兵器として用いられた猛毒の気体である。塩素ガスのタンクは第一級の毒物として、黄色いタンクに毒の丸印が大きく付けられている。

近年、国民レベルでの地球環境保護運動が活発な欧米で、化学的な根拠に基づいた塩素を含む製品の地球環境と人体に及ぼす悪影響を懸念して、これまで生活に密着してきた塩素に対する危機意識が高まっている。しかし、様々な化合物として生活に密着している塩素を含む製品の是非は、その「代替え」が無いという理由から問われることなく、現在に至っている。例えば、次亜塩素酸ナトリウムや安定化二酸化塩素の消毒剤・消臭剤などは、その効果の持続性や安全性を比較要素としなければ、非常に安価であるという理由から使用が続けられている。効果優位性を持ち、低コストでかつ地球環境と人体にやさしい塩素の「代替え」が、現在求められている。

3.2.1 「混ぜるな危険」とは?

塩素系漂白剤は、強い酸化力と殺菌力を持つため、家庭でも衣類のしみ取りや漂白、湯飲みなどの茶しぶ落とし、ほ乳瓶、食器やまな板の除菌、更にカビ取りの洗剤などに広く使われている。この洗浄力や漂白力の元となっているのが次亜塩素酸ナトリウム(NaOCl)という物質であり、この次亜塩素酸ナトリウムが加水分解されて発生する次亜塩素酸(HOCl)の強い酸化力によって、カビを殺菌、漂白している。しかし、次亜塩素酸は酸性になることで、非常に速く分解されて塩素ガスを発生する。この塩素ガスが危険なのである。過去に塩素系漂白剤で中毒になり死亡する事故が何件も起こっていることから、現在では「混ぜるな危険」の表示は、経済産業省所轄の家庭用品品質表示法により表示を義務づけられている。実際に塩素系漂白剤と混ぜてはいけない物質としては、酸性の洗剤(トイレ用の洗剤など)、お酢やクエン酸が挙げられ、さらには密室に長時間放置される事によって空気中の二酸化炭素と中和して塩素ガスが発生することもある。

3.2.2 性質

化学式:Cl2

分子量:70.9

性状:黄緑色の気体。

臭い:刺すような刺激臭

蒸気密度:2.49(空気1よりかなり重い)

溶解性:水への溶解度:0.7%:アルカリ溶液により溶ける。

反応性:腐食性が大きく、多くの有機化合物、アンモニア、微細金属と激しく反応する

持続性:短いが、非常に低いpH(2以下)では残存する。

3.2.3 毒性

催涙性。目、皮膚、気道に対して腐食性があり、粘膜から水分を奪い非常に強く刺激する。また、大量に吸入すると肺水腫を起こすことがある。吸入すると、脱力感、胸部圧迫感、咳、咽頭痛、頭痛、息苦しさ、血咳、窒息、チアノーゼ、低血圧、めまい等の中毒症状を生じ、その組織損傷の程度は、濃度、時間、組織の水分含量などに依る。一般に空気中1ppmまでが人間にとっての許容限度といわれている。

塩素ガス濃度による症状の変化を挙げると次のようになる。

1~3 ppm    軽い粘膜への刺激

5~15 ppm    上部気道への中程度の刺激

30 ppm     急速な胸部の痛み、嘔吐、呼吸困難、咳

40~60 ppm   肺炎、肺水腫

430 ppm     30分間以上の暴露で致死

1000 ppm    数分以内の暴露で致死

肺水腫は12~24時間でピークに達し、液が肺胞を満たすと、泡だった血の混じった大量の痰が観察される。また、長期間の暴露により慢性気管支炎や歯の浸食を生じることもある。

3.2.4 救急処置

 塩素ガスに対する特異的解毒剤・拮抗剤がないので、治療は呼吸管理、肺水腫対策、感染対策が中心となる。

救急処置としては、被災者を塩素ガスから安全な場所に静かに移し、出来れば20℃程度の室内で仰向けに頭と背中を高くして寝かせ、毛布をかけて暖かくする。液塩のついた衣服は直ちに取り除き、また皮膚についた液塩も直ちに温水で洗い医師の手当てを受ける。被災者が呼吸困難な場合は酸素吸入を行い、呼吸が止まった時は人工呼吸を行う。

3.2.5  塩素ガスによる事故

 先に述べた塩素系漂白剤による塩素ガスの発生で中毒になる人は、現在でも毎年数名出ている。また、1976年には、大阪のとある工場で、硫酸を運んできたトラックが間違って硫酸をNaClOのタンクに入れたため塩素ガスが発生し、100人以上が病院に運ばれた事故があった。さらに最近では、今年の3月29日、中国の江蘇(こうそ)省・淮安市で、液化塩素30トンを積んだタンクローリー車が貨物車に衝突、塩素ガスが漏れ出し、付近の住民300人が塩素ガス中毒(うち2人が死亡)、住民3000人が一時避難するという事故も起こっている。

3.3 サリン

サリンとは1995年の松本サリン事件で一躍有名になった神経毒であり、不可逆的なコリンエステラーゼ阻害剤である。

3.3.1 正式名称及び化学構造式

Methylphonofluoridic acid 1-methyl-ethyl ester または

Isoproxymethylphoryl-fluoride

化学構造式は

(分子量140.09)

3.3.2 化学的、物理的性質、環境中での挙動

 ・性状…     常温で液体

 ・比重…     1.10(20℃)

 ・融点…     −57℃

 ・沸点…     147℃(1気圧)

 ・蒸気圧…   2.86mmHg(25℃)

 ・蒸気密度… 4.86  (空気の場合1)

  ・におい…   ほぼ無し (純粋であれば)

 ・溶解性…   水に対してはよく溶ける

・分解性 

・水…水中では加水分解が起きるがその程度はpH、温度によって異なる。下に

pH区分毎の半減期を示す。

             pH4.0~6.5 237時間

             pH7.0      75時間

             pH7.5      24時間

             pH8.0      7.5時間

             pH9.0      0.8時間

    ・土…土壌への吸着性は低く、加水分解と蒸散が起きやすい。初めの5日間で

       ほぼ90%は消失する。

    ・大気…常温では液体で存在するが、揮発性が比較的早いので乾燥した地上で

        は蒸気の形で存在する。また水によく溶けるので雨、雲により除去さ

        れやすい。

3.3.3  作用機序、治療法

1)人体における作用機序

 自律神経等の神経において、神経同士にはシナプスと呼ばれる間隙がある。神経が刺激を伝える時、シナプスでは神経伝達物質と呼ばれる物質の受け渡すことで刺激を次のシナプスに伝える。一旦シナプスに放出された神経伝達物質は元の神経に再取込みされることが多い。神経伝達物質としてはアセチルコリン、ノルエピネフリン、ドパミンなどが有名である。このうちアセチルコリンについて、アセチルコリンは比較的不安定な物質であるためコリンと酢酸に分解してからコリンのみを取り込む。この分解を司る酵素をコリンエステラーゼという。サリンに代表される有機リン化合物はコリンエステラーゼの活性部位に不可逆的に結合することで不活性化させる。これによってアセチルコリンを神経伝達物質として用いる自律神経等は異常に興奮し、死に至らしめる様々な症状を起こす。

 サリン吸収後の一般的な症状は、鼻水、胸の圧迫感、視野の縮小、よだれ、過度の発刊、吐き気、嘔吐、痙攣、尿や便の失禁、めまい、頭痛、狼狽、昏睡、ひきつけ等である。これらの症状の後呼吸停止、更には死に至る。サリンは蒸気として目、肺、皮膚から容易に吸収される。また濃度によるが、1~10分あるいは1~2時間後に死亡に至ることが多い。ヒトの致死量は0.01mg/kgで、毒性はシアン化ナトリウム(致死量3.3~5mg)の約500倍にも及ぶ。また一秒で死に至る吸引致死濃度は3.5mg/㎥(人の平均吸入量を15㎥/day、体重を60kgとした。)と計算される。サリンは血漿や肝臓に含まれる酵素により分解されるが、分解された代謝物がより強い毒性を示すこともある。これらの代謝産物はサリン吸引後12~48時間後に検出される。

 

2)治療

① 汚染除去…サリンに暴露した皮膚は石けんと水で三回洗い流す。より効果的にするには水で10倍に希釈した漂泊液、エタノールを用いる。汚染された衣服等は危険廃棄物として処分する。皮膚から全てのサリンが除かれれば二次汚染の可能性は低い。

② 救助方法…被害者を有害な環境から移動させ、人工呼吸や、気道の分泌物の吸引除去を施す。

③ 対症療法…Diazepam等の抗けいれん剤を投与する。また呼吸を確保し、気管支けいれん処置のためAtropine、Sympathospasm、Theophyllineを投与する。

 

3)毒剤

① Atropine…神経伝達物質アセチルコリンの受容体阻害剤。この受容体にはムスカリンタイプ、ニコチンタイプの2つのサブタイプがあるがAtropineはムスカリンタイプにのみ結合し、サリンによる症状を緩和する。治療投与量は大人は2~5mg、子供は0.05mgをゆっくり静脈注射する。Atropine飽和の達成、維持のため10~30分毎に繰り返し投与する。

② Pralidoxime(Protopam,2-PAM)とその塩化物…重症の有機リン中毒、中枢神経系症状に有効。これはコリンエステラーゼに結合したサリン等有機リンを引きはがす。大人は1~2gを0.5mg/minの早さで静脈注射するか、生理食塩水250gに溶かし30分以上かけて点滴する。

③ Obidoxime Dichloride…Pralidoximeの誘導体。Pralidoximeより毒性が少なく、より効力がより強い。250mgを筋肉注射し、その後持続して点滴が必要となる。

④ HI-6…Obidoximeの代替品。コリンエステラーゼの再生産を促す。

⑤ Pyridostigmin bromide…サリンの予防的解毒剤。コリンエステラーゼのおよそ30%と可逆的と結合し、不可逆的に結合する有機リンとコリンエステラーゼの結合を阻止する。ただし過剰投与は腹痛、下痢、嘔吐、吐き気、唾液、筋力低下、視力低下等の強い副作用を引き起こす。

3.3.4 サリンの歴史、関連する事件

 サリンは第二時世界大戦中にドイツで有機リン系殺虫剤の開発中に発見されたもので、発明者の名前から命名された。後に戦争用の神経ガスとして開発された。イラン・イラク戦争後、イラクが同国内のクルド民族の鎮圧に使ったとされる。

 日本ではオウム真理教による①1993年11月12月の創価学会池田大作の暗殺未遂事件、②1994年6月20日の松本サリン事件そして③1995年3月20日の地下鉄サリン事件にて使用された。①の事件では2トントラックに噴霧器を備え、噴霧したがサリンの逆流により失敗に終った。この時オウム真理教の医師である林郁夫が治療薬としてPralidoximeを用い、有効性を確認した。②の事件では長野県松本市での土地買収の訴訟の敗訴の可能性が高いことを知り裁判所宿舎にサリンを噴霧した。この時には実行犯は①の事件をふまえ、予防薬であるPyridostigmin bromideを服用、更にPAMと注射器を持ち、さらに防毒マスクを装着していた。この事件により住民7名が犠牲となった。③の事件はオウム真理教に対する警察の強制捜査の攪乱と回避を目的で起こされた。②の事件以降教団はサリンを廃棄していたが、製造者の中川友正がサリン前駆体を隠し持っていた。強制捜査の情報が教団に入るとすぐにこのサリン前駆体から合成したサリンを散布したため純度が低く、犠牲者を少なくした要因になった。それでも日比谷線、丸ノ内線、千代田線において計12名が犠牲になった。以上の犠牲になった方々にこの場を借りてご冥福をお祈りしたい。

参考図書

事件から見た毒—トリカブトからサリンまで       化学同人

日本中毒百科   南江堂

不老不死への科学